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2005年12月12日

●ジョン・バッテル『ザ・サーチ』

「Googleとそのライバルたちは、ビジネスのルールを、メディアを、我々の文化を、どのように書き換えてしまったのか?」と帯にあるとおりまさにタイムリーな内容。

「検索の分野に関わる技術者は口をそろえて、検索はまだせいぜい5パーセントしか解明されていないという。その可能性の二桁も利用できていないと強調する。しかも検索エンジン自体が驚くべきスピードで変化している。・・
 ここでは、完全なる検索の世界というものを想像してみよう。それはどのようなものだろうか。
 なにかを質問して客観的な回答を得るのではなく、完全な検索をして「あなたの」完全な回答を得る、あなたの質問の文脈と意図に適した回答、不気味になるほどの正確さで、あなたがだれであり、なぜ質問したかを知り尽くした上での回答を得る・・。これが完全なる検索の世界である。」
 グーグル以前以後のネットビジネスの変遷、「検索」の枠を越えつつある「検索サービス」・・さまざまな読み方ができるが、個人的には、「検索」と「編集」の関わりを考えながら読む。爆発的に増大するデータの中から、選択(加工)して、提出することは、検索エンジンの役割でもあるけれど、編集業が担ってきた役割でもある。検索エンジンがつきすすでいる「パーソナライゼーション」は、これからますます洗練されていくだろうが、それが「完全な姿」でないかぎり、そこに人が介在する余地があって、先のエントリーのようなネットコンシェルジュもそうした需要をみたすものだろう。

 いっぽう「編集」には、情報の生産を補助し効率化する役目もあるわけだが、こちらは、いまや誰もがコンテンツを生み出し、共有できる環境を得たことで、CMSのアーキテクチャがその役割を担おうとしている。特に、CMSでの「権威」と「インセンティブ」の設計が、その要点。

投稿者 esaka : 2005年12月12日 01:01

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コメント

検索と探しごとと調べごと質問と、
回答と解答と推薦と提示と選択と、
辞典と事典と字典と辞書とを、
一つの検索というもので解決しえるとすると、
相当ツーカーな仲でも難しい。
人同士の感覚さえ超える理解力は、
コンピュータを友達にも変える世界。
ドラえもんですね。

普段、ドラえもんに頼りっ放しののび太君は、
時折、すごい勇気と行動力をみせますが、
依存は人の独立心を低下させ、自活できなく
させるような気がしますね。
検索依存というものがあるなら、
それは一時的な知識の増進につながっても、
自分に知識を蓄えようという力の低下になる
ならば、そもそもの検索をする力さえ
低下したりして・・・。

投稿者 ミヤアド : 2006年01月04日 17:42

新雑:知識に広がりを与えてくれるのか、
検索:知識を自分から探す・もらうのか、
という違いからでしょうか。自分から探している限りは、当該の知識以上に膨らみづらく、他人から知識を与えてもらうみたいに、
知識(情報)のおすそわけはもらえる可能性が少ないのでしょうね。
検索で知識が広がるということを称える人がいますが、「広がる」という可能性は、検索結果やその先のページにノイズがある場合を指すのでしょう。
新雑にあるノイズには、それがトリビアであっても、楽しさが含まれていますね。やはり新雑は楽しいかな。検索には楽しさがないですね。
能力低下の可能性こそあれ、文化を変えれるようなものでしょうか。

投稿者 ミヤアド : 2006年01月13日 15:46

コメントのアップが遅れてすみませんでした。
一方で、情報過多と認知限界という状況もあり、自身の興味外の「ノイズ」をどこまで許容できるか、というのも、かなり難しいところですね。
個人の指向に添ったデータをサジェストするという形に「検索」にも、ある程度の「ノイズ」は機械的に入れ込むこともできるでしょうし。
あとは、「センス」というなんとも定義しがたい感覚も、人が関わる上での「鍵」なのかもしれませんね。

投稿者 esaka : 2006年01月23日 00:40

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